湘南エクレシアキリスト教会へようこそ

体験談

セレブレイト・リカバリー 体験談

 女性

 私は、7年前に「うつ病」と診断され、現在も通院治療中です。

3年程前更にうつ病がひどくなり、それまで書道やペン習字などで生計を立てておりましたが、うつ病がひどくなるにつれて、お薬の量も多くなり、その副作用が現れ、腎臓が悪くなったりしました。何よりも辛かったのは手の震えが止まらなかったことです。そうなれば、書道やペン字をお教えすることなどとても無理です。私は「無職」となりました。預金を崩しながらの生活は不安が募るばかりで、私は日々「死にたい」と思っていました。そんな中、私はセレブレイト・リカバリーに出会ったのです。

 私はクリスチャンであり、洗礼も受けていました。これは、セレブレイト・リカバリーを学ばせていただきつつ、目についた本の一節ですが、「普段は神を信じない人でも、苦しい時には神頼みします。なのにクリスチャンは苦しくなると、なぜか逆に神を疑ったり、神から離れたりするようです。困難の中で、いよいよ神にすがっていくというならわかりますが、それがしばしば逆なのです。」まさに、その時の私がこれでした。

 経済的な不安におののく日々、私は過去を悔い、未来を思い煩う日々を重ねに重ね、今、現在に生きることがありませんでした。その中で、セレブレイト・リカバリーの平安の祈りは、「与えられた一日を精一杯生きることができるように 一瞬一瞬を楽しむことができるように……」とお語りくださいました。

 そして弟が……私は弟をとても尊敬しているのですが……不安におののき現在に生きていない私の目をジッと見て「姉ちゃん、バカみたいに神様のことを思い、信頼するんだよ。」と何回も何回も言ってくれました。その上私に、生活費をそっとてのひらに握らせてくれました。私はなぜ弟がこのようにしてくれるのかわかりませんでした。と、申しますのは、私は小さい時から弟を上から目線で見ており、互いに、ほんの近くに住んでいる兄弟であるにもかかわらず、心は疎遠でおりました。その弟が……「姉ちゃんなんて大きらいだ。」と小さな声で呟いていた弟が、今私の目の前に満面の笑みをたたえて、神様のことを語っているのです。この、今、私の目の前にいる弟は、あの疎遠だった弟とは明らかに違いました。

セレブレイト・リカバリーのことを教えてくれたのも弟でした。ですから、ガイドブック2のP.56にある「回復プログラムに取り組む前、あなたが教会に通っていた主な理由は何ですか。」の問いに、迷わず、「弟が出会った神様に出会いたいため」と書きました。そして祈りました。「神様、ください。何もない私に、あなたを信じる心を。今日もあなたを信頼する思いを与えてください…。」と

 また、ガイドブック1、P.33より。試練を自分が変わるための機会として受け入れていく必要があり、それは、私たちを良い方向へ導くためのものであって、ただ苦しい目に遭わせるためのものではない……ずいぶん慰められました。

 マザー・テレサ氏の書簡の中に、「空っぽ」という題のメッセージがあります。「神様はいっぱいのものを満たすことはできません。神様は空っぽのものだけを満たすことができるのです。……イエス様の呼びかけに、「はい」と答えることは空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、私たちの中でイエス様が生きられるようになるのです。……コップの中に水がいっぱい注がれていたら、もうそれ以上水を注ぐことはできません。自分の心のコップを空にすること……」そしてセレブレイト・リカバリーのディボーションより、「全てにおいて自分が無力であることをもう一度確認すること」――私はいつも自分の思いで心をいっぱいにし、神様が中心であるはずなのにいつも自分を中心としている……つまり私を私の主としていたのです。そして思い煩いながら、自分の外…神様を心にいただく、また、神様へまなざしを向けようと思いつつも、平安とは成功することであり、平安とは夢が叶うことであり、平安とはお金に恵まれること等々、それがいつの間にか私にとっての真の平安だと思っていました。

私は弟と同じ教会に所属しておりますが、ヘンリー・ナウエンさん曰く、教会に通いながら、先ほど申し上げましたように、心を自分の外へともっていっている時、私自身の心は私自身にとっては他人となり、住所はあるが在宅していることのない、したがって愛に満ちた声を聞き取ることのできない者となってしまう…まさにその通りでした。

そして、セレブレイト・リカバリーの学びで、回復の仲間にお目にかかれたことは幸いでした。とても感謝しています。心から信頼できる方にお会いできました。この方との出会いは、まさに伝道者の書4章9節から「ひとりよりだれかと一緒がいい。いっしょに仕事をしたり良いものを分け合ったり、自分がダメなときには力になってくれて、ひとりでは無理なことも、だれかと一緒にいれば立ち向かえる」というものでした。

セレブレイト・リカバリーにより、今までの罪の言い訳をやめ、真実を認めること、そして、神様と自分自身に対して正直になること、それはとてもむつかしいことですが、告白という学びにより解放を得、新しい自分自身なりたいとたえず思っています。

今年に入ってから、また筆やペンを持って震えず書くことができるようになり、5月には教会設立記念のしおり500枚を手書きすることができました。また、ペン字、書道の学び、おもに、「聖句を書く会」を主によって再開させていただけるようになり、数々の兄弟姉妹と共に、聖句に触れさせていただいております。

うつ病がひどくなることにより、弟との心の交流が新たにされ、回復の仲間とお目にかかることができ、そしてそれによってセレブレイト・リカバリーを学ばせていただけたことは主の恵みであったとつくづく思います。

セレブレイト・リカバリー ステップ7のディボーションより。皆様、より健康な未来へと導いてくださる究極的な助けは神様です。神様は、私たちがつまずくのを避けることができるように、私たちの欠点を喜んで取り除いてくださいます。私たちが謙虚な心で、多くの欠点といまだに戦っているという姿勢で神のもとに近づく時、神様は、私たちを新しくし、新たな戦いを続けるために必要な勇気を与えてくださいます。私たちがしている愚かな行動のために、私たちに愛想を尽かしてしまうことがありません。私たちのすることを見ておられますが、それでも私たちを癒してくださるのです。一歩ずつ私たちを回復へと導いてくださいます。私はここに大変ななぐさめを与えられました。皆様もぜひセレブレイト・リカバリーにふれてみてください。

 

 

セレブレイト・リカバリー

2011.7.2

6CR全体集会

碓井由希子

私は、セルフイメージの低さ、共依存、赦せない思いの問題と闘っています。

私は、子どものころから、意思が強いといわれ、それは、自分にとっては褒め言葉のように感じていました。しかし、いつの頃からか、特に大学生の頃には、その意思の強さゆえに、様々な物事に対して、私は正しい、私は正しい考え方をしている、と考えるようになり、相手の考えが間違っている、と裁くようになりました。「私は正しいことを言っているのだから、間違っていることを、間違っているといって、何が悪い?」と言っていました。確かに、私は筋の通ったことを言っていることがあったかもしれません。けれども、その態度は、傲慢そのもので、物事を良いか悪いか、それだけで判断して、悪いものは潰す!という、相手を突き飛ばすようなものだったと思います。

ちょうどその頃に、私は牧師のティムさんと出会いました。神様を信じるなんて、おかしい!と思っていましたから、その通り、そのままのことをティムさんに言いました。いや、もっと、ひどいことを言いました。

しかし、大学3年生の頃から私の心は揺れ動き始め、しかし、なかなか神様を信じるには至らず、ズルズルと…。就職して、2年目の冬にとうとうイエス様を自分の個人的な救い主として受け入れました。

しかし、それまで、自分が全て正しいと思って、強い意志の下に生きてきた私は、そこから次第に自分というものがわからなくなってしまいました。私が正しいわけじゃない。神様が正しい。私の価値観はいったいなんだったのだろう?自分が、「正しい」と思ってきたことが、実は自分の独りよがりなわがままだったということに気がついてからは、次第に、自分自身というものがわからなくなり、何に信頼して人と話せばよいのか、何を下に、何を人に話せば良いのか、どんどんわからなくなっていきました。教員という仕事柄、人にアドバイスすることはたくさんありました。けれど、そのアドバイスは本当に正しいのか?それは私が一人勝手に思い込んでいる考えなのか、それとも神様の聖書にかなったアドバイスなのか。わからないから、あいまいな物言いになりました。「自分」を信じていたときには、信じるものがあったので、情熱を持ってそれを語ることができましたが、神様を信じたからといってそれを一瞬のうちに「神様」に切り替えるということはとても難しいことでした。

仕事上、土曜も日曜も、サービス出勤という事がありました。けれども、礼拝や、賛美の練習に参加したい私は、そこで、教員社会の常識というものに対抗しなければならなくなりました。教員の意識の中には、ボランティア的な態度があると思います。休日返上で仕事をすれば良い先生、定められた時間の中だけでしか働かないなら悪い先生というようなものです。事実、定められた時間の中だけで仕事をやるのは難しいのです。また、教員の仕事は底なしです。良いものを目指していくらでも準備することもできるし、逆に、適当にさらっと流してぬるま湯に浸かったような仕事をすることもできるのです。私はそのどちらにもなりたくはありませんでしたが、ただ、とにかく、礼拝、コイノニア(スモールグループ)、賛美の練習の時間はとても大切にしたかったのです。けれども、同僚の中には、教員の時間を優先しないことに反感を覚える方も多くいらっしゃいました。その中で、私は疎外感を感じ、卑屈になり、職員室にいることがとても苦痛になり、職員室で顔を上げることもできなくなっていきました。その思いは生徒にも伝わり、生徒達も劣等感を持つようになってしまったし、私自身も生徒の前で劣等感でいっぱいになってしまいました。

ちょうどその頃、米沢こうじょう教会のトータルカウンセリングスクールのセルフイメージコースと初級コースを受けていました。その時に、私は自分がいかにセルフイメージの低い者であるかというのを思い知らされました。私は幸せになってはいけない、私は存在してはいけない、私は健康であってはいけない、私は私であってはいけない、私は自分の人生を歩んではいけない、いけない、いけない、いけない…そのようなたくさんのいけない禁止令の中で私は生きているのだということがわかりました。

自分と神様と他の人たちの狭間の中でその後1~2年を過ごしました。その間に結婚し、仕事もやめました。結婚してからは夫との間の共依存関係に苦しみました。大好きなのに赦せない、受け入れられない、その苦しさ、自分の思考には何かおかしなパターンがあると気がつきました。

そして、それから5年。とうとうセレブレイト・リカバリーが私の前にやってきました。これに取り組まなくては、私は絶対に解放されない!と思いました。それから毎週毎週、時には休むことがあっても、自宅から登戸まで往復3時間近くの道のりを通い続けました。

1回目の棚卸しのときに、やはり自分のセルフイメージの低さのことを示されました。私の問題のほとんどは、セルフイメージの低さから来るものだということがわかりました。セルフイメージの低さから具体的に脱出するための方法もわかるようになりました。例えばそれは、自分が否定されるのが怖いからといって、相手の言うがままになったりせず、自分が考えていることをきちんと伝えることであったり、どうせ自分にはできない、と思っていた長距離走に取り組むことによって、自分にも頑張れる、という思いを持ったり、また、人々に関心を持ってもらったり、辛いことから逃れたいがために体調を崩したり、もしくは具合が悪くなりたい、と思っていましたが、自分の身体を大切に管理するということも覚えました。

「神様は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神様が望まれる行いができるよう、助けて下さるのです。」(ピリピ2:13)とあります。セレブレイト・リカバリーを通して神様と向き合うようになってから、御言葉を自分の生活に適用することがますます楽しくなり、また、確かに、今も生きて働かれている神様を体験しています。セレブレイト・リカバリーを始める前は、御言葉の適用をしても、その場限りのものとなってしまうことが多く、継続して自分が変えられていることを実感するのはあまりできなかったのですが、今は、毎日がリカバリーであり、毎日が確かに、神様と歩む毎日です。

2巡目のセレブレイト・リカバリーにでは、セルフイメージの問題の根本に取り組むよう示されていると感じました。1年半前にパニック障害になり、いまでも緊張することがあると過呼吸気味になってしまうのですが、これも、セルフイメージの根本問題が回復しないと完全には治らないと理解しています。

私は自分のセルフイメージの低さは、親のせいだ、という思いからどうしても逃れられずにいました。けれども、今回のリカバリーの中で、確かに親が私にこんなセルフイメージを植え付けた事実は否定できないが、セルフイメージが低いまま生き続けることを選択しているのは私自身の責任であるということに、気づかされています。「もし、自分には罪がないと言い張るなら、それは、自分をだましているので合って、真理を受け入れようとしない証拠です。しかし、もし自らの罪を神様に告白するなら、神様は間違いなくそれを赦し、すべての悪から、きよめてくださいます。[なぜなら、キリスト様は、私たちの罪を帳消しにするために、死んでくださったからです。]」(Ⅰヨハネ1:~9)とあります。神様は私を尊い、愛すべき存在として創ってくださっているのに、それを否定して「いやぁ、そんなことはないです、私は悪者です。」というように低いセルフイメージを選択し続けることは、罪であるということがわかってきたのです。

2回目の棚卸し作業をしている中で、私を低めている大きな問題にとうとう気づかされました。それは、「私は、人にとって悪影響を及ぼす者に違いない」、という低いセルフイメージ、とらわれがあるということです。これがあるからこそ、私は今まで子どもたちの幼稚園のママたちとなかなか親しくなれなかったし、職員室で顔を上げることができなくなってしまったし、中学生の頃から、友人を「~さん」付けでないと呼べなくなってしまったのだと思います。また、この「私は、人にとって悪影響を及ぼす者に違いない」というとらわれを打ち消したいがために、「私は悪くない」と、自分を強く正しく見せ、また、「あなたが悪いんだ」と、人々を低く、悪く見ていたのだと思います。

この2回目の棚卸し作業の中で、さらに気づかされた大きな事がありました。それは、自分には「わたしは赦されている」という感覚がないということです。よくよく考えてみると、自分には「赦された」という経験の記憶がないということに気づかされました。何か悪いことをしてしまったときに、叱られて泣くということはたくさんあったけれど、そこへ「もういいんだよ」「赦すよ」と言ってもらったという確認というか、確信というようなものを得たという記憶が特にないのです。私には赦すとか、赦されるとかいうことの意味がはっきりと分かっていないのだということが分かりました。それからほぼ1ヶ月かけて、私はイエス様の十字架のみわざについて深く考えました。そしてそれが、私の犯した罪に対する犠牲であり、また私に傷を負わせた人々を赦すための犠牲であるということを理解するようになりました。イエス様が私の罪と人の罪の「犠牲」であるということを初めてしっかり受け止めることになりました。

そのことにより、自分は自分を傷つけてきてしまった人々を赦すことを「仕方無しに」ではなく「前向きに」するようになり、自分はもう赦されているのだから、OKなんだという安心を受取り始めています。まだ、受取り始めたばかりで、もっと自分のものとしていく時間が必要だと思っています。

現在2つのグループに参加していますが、今は特に、不安に思うことからの回復、これはつまりパニック障害からの完全回復です。それから、人を罪に定めないこと、に取り組んでいます。私の中のセルフイメージの低さや、赦されていない思い、赦せない思いはとても根深くて、こんなに変えられてきたのにもかかわらず、まだまだ自分と他人を傷つけてしまいます。これからもっと色々な問題が明確化され、全ての重荷から解放されることを期待しています。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。」ヤコブ4:10

皆さんのすばらしい体験も、ぜひお聞かせ下さい。
shonanekklesia@mustardseeds.jp
メールで、どうぞ